2013年07月05日
NSAの通信傍受システム(4/5)
『監視カメラ社会』(講談社+α新書、2004、絶版)の第二章「NSAとエシュロン」その4/5
■NSAの秘密計画
1952年に設立されたNSAは、「外国の通信」(*21)の傍受を大きな任務とした。NSAを最初に直接規定した法律は1959年NSA法(*22)だが、これは組織運営を定めたにすぎない。NSAは「No Such Agency」「Not Say Anything」の略といわれるぐらい、実態は長らく明かされてこなかった。活動状況が知られるようになったのは、1972年に起きたウォーターゲート事件を契機に、国家による非合法的な情報収集活動に米世論の非難が高まった70年代半ばのことだ。NSAの活動に法的な枠組みをはめたのは、1975年に設立された情報活動に関する委員会であった(*23)。
1975年10月29日および11月6日に開催されたチャーチ委員会の公聴会(*24)において、NSA長官のアレン中将(当時)は、NSAが国際電話・電信を組織的に傍受していることを認めた。その後の情報とあわせると、1945年以降、NSAおよびその前身は、米国の主要な国際電信事業者(RCA Global、ITT World Communications、Western Union International)の通信を体系的に捕捉していた。
「SHAMROCK」というコード名で呼ばれていたこの活動は、米国以外の国の通信を収集することが目的であった。1975年5月15日付の国防長官命令によって終結するまでの30年間ものあいだ、シャムロックは存在が秘されていたのである。チャーチ委員会においてアレン長官は、シャムロック計画では米市民の通信も収集されていることを認めた。国際通信とはいっても、米国市民が外国に発信したもの、外国から米国市民に発信したもの、米国市民が外国に滞在する米国人に発信したものも含まれる。これらは結果的に憲法で保障された米国市民の権利を侵害する可能性が高かったため、NSAの活動を法的に制限することになったのである(*25)。
東ドイツなどの旧東欧共産圏の国であれば、国際電話が情報機関によって組織的に傍受されることなど、常識といってよかった。現実には、米国というもっとも自由が保障されると考えられている国でさえも、おなじことをやっていたのである。私はこのような行為を肯定するつもりはないが、自国の権利を守るためには、ここまでなりふりかまわない情報収集が断行されうるのだという現実を思い知らされてしまうのだ。
■依然謎めくNSAの実態
NSAの行動基準は、1981年12月4日にレーガン大統領が署名した大統領命令12333号で詳細に決められた。これによってNSAの任務は、国防長官の責任のもとで、外国情報の収集や分析、軍を含む関係省庁への情報提供、防諜のためのSIGINT活動、軍事行動に関連する諜報活動の支援、米国のSIGINT活動および通信に関連する研究開発などを含むことが明確になった。
2000年4月12日、下院情報委員会の「NSAの法的権限」に関する公聴会(*26)において、NSA長官のマイケル・ハイデン将軍がNSAの任務について述べた。すなわち、電子的な監視によって軍関係の外国通信を収集すること、国際テロ・麻薬・兵器拡散に関する情報を関係官庁に提供することである。ただし、NSAはすべての通信を収集しているわけではなく、情報を提供できる相手も政府が認めた者にかぎられ、米国企業に直接情報を提供することは認められていないと証言した。
NSAの情報収集活動の限界については、2002年4月24日の欧州議会エシュロン臨時委員会においてニッキー・ヘイガーも指摘している(*27)。ヘイガーによれば、エシュロンの能力を活かせるかどうかは分析者の技量次第である。このような制約がある以上、あらゆる人をスパイするのではなく、もっとも関心のある情報の収集に集中しているのは当然のことだ(*28)。ジェイムズ・バンフォードもまた、10人以上の元および現役のNSA職員へのインタビューを経たうえで、NSAは無作為に情報を収集しているわけではない、と著書のなかで指摘している。ヘイガーの一日前におこなわれた臨時委員会でも、彼はこの内容を確認している。
しかし、米企業への情報提供については、依然としてあいまいな部分が残されている。2001年1月22日のエシュロン臨時委員会でダンカン・キャンベルは、米国は情報機関を米企業の商談獲得に利用していると強調し、傍受内容はCIAや米商務省アドボカシーセンターを通じて米企業に渡されていると語っている。他方、バンフォードの委員会発言では、20年間にわたる調査を通じ、NSAが私企業の通信を傍受したことはあっても、それを米企業に渡した証拠はえられていないという。
ヘイガーの委員会発言では、どの企業がどのような支援を受けたかという具体的な事例は知らないとする一方、インタビュー調査の時点において、ニュージーランドの情報機関にとって経済情報は主たる標的ではないにしても、定常的な収集対象ではあったと述べている。たとえばそれは、牛肉取引に関することや、南太平洋での日本の開発計画に関する事柄で、どれもニュージーランド企業には関心の深いものであった。
エシュロンの運営母体であるNSAの活動実態は、結局のところ、よくわかっていないとしかいいようがない。他方で、情報収集面で大きな権限と技術力を持っていることは間違いない。ゆえに、憶測に憶測が重なってNSAの存在感が大きくなってしまうのだ。また、欧州議会には、情報機関や監視システムの必要性に異論はなくても、自国の憲法で禁じている活動を自国外でおこなうNSAそのものへの反発がある。そのことが、エシュロン問題を大きく取り上げる大きな動機になったのではないか。
■エシュロンの威力と限界
1960年代までは、監視はローテクによる人海戦術頼みであった。たとえば旧東ドイツは50万人もの秘密諜報員を雇っていたが、そのうちの1万人は、市民の電話会話を聴いて記録するためだけに必要だったのである。米国では60年代から電子的傍受システムの必要性が認められ、この年代に宇宙からのSIGINTが実施された。
現在の日本のように、通信需要のかなりの部分を有線でまかなっているのは、経済活動の活発な地域が高密度で集積しているからである。逆に、ロシアのシベリアに通信網を築こうと思ったら、無線のほうが経済的なことは明白だ。実際、旧ソ連ではマイクロ波無線が長距離通信の中核を担っていた。そして米国は1960年代後半に、人工衛星を使ってその傍受をおこなった。これがNSAやCIAにとって予想以上に効果的であることが判明したため、衛星を基盤にした傍受システムが拡張されたのである。
米国が通信傍受衛星を打ち上げた経緯を〈表3〉にまとめてみた。
2002年4月4日、地球近傍小天体の観測をおこなっているNPO(非営利組織)の日本スペースガード協会は、「静止軌道上に巨大衛星システムを発見」と発表した(*29)。「衛星」は東経120度近辺に位置し、完全な静止軌道上ではなく、継続的に軌道制御をおこなってた。米空軍作成の人工衛星のリストにも記載がないため、これは東アジア地域のSIGINTをおこなっている傍受衛星である可能性が高いと考えられている。偶然とはいえ、宇宙空間に怪しげな人工衛星が浮かんでいる事実があらわになったのだ。
宇宙空間と地球とのあいだを遮るものはないのだから、有線は無理でも無線の通信は根こそぎ傍受できる——こうした発想から、エシュロンは個人の携帯電話をも網羅的に傍受するかのごとく語られてきた。しかしそれは非現実的である。人工衛星が周回する位置から傍受できるのは、マイクロ波・短波など、通信電波のごく一部にすぎない。弱い電波の傍受は低軌道でなければおこなえないが、低軌道の衛星は移動速度が速いために、特定のターゲットを長時間傍受するのは不可能なのだ。
エシュロンの脅威を語るときに、「宇宙からの傍受」と形容されることがあるが、裏を返せば、傍受の範囲は宇宙でも受信できる電波に限定されるということだ。中東の衛星電話は傍受できても、渋谷の携帯電話は困難なのである。いまでも地道な情報収集活動も必要であり、NSAやCIAは小型の傍受装置を開発し、それを諜報員に持たせて使用させようとしている。スパイは失業しないのだ。
電波の一部しか傍受できないのであれば、エシュロンは何を標的にしているのか。冷戦時代に旧ソ連のマイクロ波を標的にしていた傍受システムは、1985年以降は中東の衛星電話に「耳」が傾けられるようになる。1987年・88年の米海軍のペルシャ湾での作戦、1991年の湾岸戦争を支援した。また、アルカイダのビン・ラディンの衛星電話を傍受していたのも、米国の通信傍受衛星であろう。そのほかにも、国際的な機関がネットワークを運営している国際衛星通信がエシュロンの傍受対象だ。
(*21) 1950年3月10日政令9号(NSCID9)によって、軍事、政治、科学、経済などの面で価値のある情報を含む政府関係ならびに他のすべての通信と定義されている。
(*22) The National Security Agency Act of 1959(P.L.86-36) なお、NSAに関する国防総省1971年12月23日命令S-5100.20号は、NSAは国防総省に属する独立した部局であり、国防長官が監督すると規定し、任務の第1は米国のSIGINT活動であり、次いで全省庁に安全な通信システムを提供することであるとした。
(*23) 1975年1月27日、米上院は「情報活動に関する政府工作の特別調査委員会(チャーチ委員会)」を設置した。同年2月19日には下院も情報特別委員会(ネッツィ委員会、5ヶ月後にはパイク委員会に移行)の設立を決めた。チャーチ委員会では諜報機関の非合法的な活動をセンセーショナルに扱い、パイク委員会では情報機関の役割や対費用効果を調査した(“The Pike Committee Investigations and the CIA”, Gerald K.Hainesより→http://www.cia.gov/csi/studies/winter98-99/art07.htmlを参照)。そしてパイク委員会は、NSAの存在は特別な立法で規定し、シビリアンコントロールのもとに置くよう提案した。
(*24)Select Committee to Study Governmental Operations with respect to Intelligence Activities(議長はチャーチ上院議員)
公聴会発言の公開部分は http://cryptome.org/nsa-4th.htm, http://cryptome.org/nsa-4th-p2.htm で公開されている。
(*25)委員会調査による問題提起を受けて、1978年に「Foreign Intelligence Surveillance Act」(FISA:外国情報監視法)が成立し、米国内での外国情報を電子的に監視する手続きが定められた。外国機関の通信は司法長官の許可があれば監視でき、合衆国人(米国籍保有者および合法的な永住権保有者)の通信の監視には裁判所の令状が必要となった。これらの内容は“The National Security Agency:Issues for Congress”, Richard A.Best,Jr., January 16,2001, Congressional Research Service, The Library of Congressに詳しい。テキストはhttp://www.fas.org/irp/crs/RL30740.pdfで公開されている。
(*26) The House Permanent Select Committee on Intelligence,hearing on", The Legal Authorities of The National Security Agency", April 12,2000
(*27) "Nicky Hager appearance before the EP Echelon committee", Nicky Hager, cryptome.org, 2001.4.24
(*28) "Nicky Hager Appearance before the European Parliament ECHELON Commitee"より。この発言はhttp://cryptome.org/echelon-nh.htmでテキストが公開されている。
(*29)「2001年12月22日に偶然観測した方向に約9等級ととても明るい静止軌道物体を発見した。その高度から直径が約50mもの巨大なシステムであることがわかる」(同協会Webページ掲載のリリースより)と伝えた。日本スペースガード協会のホームページURLはhttp://www.spaceguard.or.jp/ja/index.html
(*30) COMSAT : communications satellite corporation
打上時期 | 衛星名 | 目的 | 備考 |
---|---|---|---|
1968.8 | CANYON | COMINT | 1977年までに7個打ち上げられ、予想以上の成果をあげた。 |
1978.6 | CHALET | COMINT | CANYONの後継機、後に名称をVORTEX、さらにMERCURYに変更した。 |
1979.10 | 英国メンウィーズヒルを地上基地に使用した。 | ||
1967-1985 | RHYOLITE | SIGINT | 巨大なパラボラアンテナを広げVHF・UHF電波を傍受する。 |
AQUACADE | |||
1985以降 | MAGNUM | SIGINT | RHYOLITEより大規模な衛星で、テレメトリー、VHF電波、移動体電話、ページングシステムを傍受する。日本スペースガード協会が発見した巨大物体は、MAGNUMのひとつではないかという推測がある。 |
ORION |
※この内容は執筆時点で確認したものである。また、書籍の内容はこのテキストから校正を経たものであるため、一部異なっている部分がある。
※リンク先はすでに切れている可能性もある。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.fbook.com/blogmain/mt-tb.cgi/37
Copyright (C) Masayuki ESHITA