1986年4月発行の新書館「ライジング」少年合唱団来日公演特集より





バーンスタインも絶賛

少年ソリストという存在は、ヨーロッパでは、さほどめずらしいものではないが、
一人の特定の少年を指し、数ある音楽祭やオペラ祭で起用され、数多く歌ってい
れば、話は別かも知れない。

 新聞等に「神童」とまで賞された、アラン・ベルギウス、彼がその少年だ。
チェリストであるドイツ人の父とピアニストであるイギリス人の母、そして姉、
妹とミュンヘン郊外に住んでいる。
栗色の髪の、年よりはずっと小さく見える少年だ。今年で14歳になるがプロ
になり(ギャラをもらうようになって)すでにもう6年もたっている。
 
 彼がこの世界に入ったきっかけはこうだ。アランの父、ヴォルフガング・ベル
ギウスが、バイエルン国立歌劇場のチェリストとして、テルツ少年合唱団と共演
した時、合唱団の指揮者シュミット・ガデン氏に、自分にも歌の上手な息子がい
る事を話した。 アランがブレスなしで2オクターブを歌いきるのを聞いた時、
シュミット・ガデン氏はすぐさま、彼の合唱団に契約させた。時にアラン7歳。

 ここで彼は成長する。合唱団のトップで歌うようになるまでそう時間はかから
なかった。すでに、9歳でオペラ・デビューをしている。同年からアルノンクー
ル指揮のバッハ・カンタータのレコーディングも始まり、ペータ・シュライヤー
とも共演。華々しいスタートが切られる。

 もっとも多く出演したオペラは『魔笛』であろうが、少年としてその、リアル
な美しさと悲しさを演じきった『ねじの回転』はアランの当たり役(はまり役!)
だった。 同時期、テレビ用オペラ『アポロンとヒュアキントス』も制作される。
ブリュールの城内で歌われたこのモーツアルトのオペラ。テルツ少年合唱団のソ
リスト四人とテノール一人。アランは今度は美少女に変身し、ヒロインの「メリ
ア」を歌うが、このアリアはなかなか聞き物であった。
装飾音の部分のアレンジには、なんと『魔笛』の夜の女王のアリアの最高音より
もいま一度高いコロラトゥーラが歌われたのだ。
この頃からアランは多忙を極めている。ロンドン、パリ、バルセロナ、ボルドー
勿論隣国、スイス、オーストリア、そして西ドイツ中のオペラハウスで、きらめ
くようなのびのあるソプラノの歌声を響かせている。
____そしてアメリカまでも!
バーンスタインとの初共演をウイーンで終わらせた後、海を渡りニューヨーク、
ソルトレーク・シティー、パサディナで、マーラー交響曲4番の終楽章ソプラノ
・ソロを歌った。
「彼(アラン)は本当に最高だ。まったく歓喜してしまった」とまで、巨匠、
バーンスタインにいわしめたアラン。

 

ギムナジウムでは12歳の少年

そんな彼も家に帰れば一人のギムナジウムの生徒である。アランが通う、ペスタ
ロツィ・ギムナジウム(音楽学校ではない一般の学校)から、ついに、というか
当然というか、一通の手紙が来た。出席日数が、極端に足りない、というのだ。
 無理もない。オペラ出演は単にいって歌うのではない。リハーサルから出なけ
ればならない。これが国内ならいい。
たとえば、彼の一日に触れると、学校が終わった後、飛行機でケルンへ、夕方の
出演、その後11時にホテルのベッドで休む。翌朝5時に起き、飛行機でミュン
ヘンへ向かい、そのまま学校へ。こんな事が月何回か行われ、遠方だと当然学校
へは戻れない。合唱団の活動も入るとなると、もう月の半分は、スケジュールで
一杯になってしまうのだ。
 そのため、ついにアランの両親は、彼を5年間所属させた合唱団から、引き取
ることを決意した。彼が12歳の時だった。 アランは歌を天職たるべきともい
えるプロフェッショナルの態度でそれまでおくってきた。それほどのハードな毎
日を彼は楽しく思っているのだ。
しかし彼の両親は心配し、アランに休息をとる事を命じたのだ。

 学校での彼はやはり人気者であったらしい。すでに世界中の沢山のものを見、
聞き、体験してきたのだから。有名になって変わった?との質問に、
「僕はちょっと生意気になったみたい」 と、彼はやんちゃに答えている。

 しかし、彼の静かな日々は、つかの間だった。まわりが「神童」をほっておか
ないのだ。 出演依頼の電話は鳴り響く。 半年、一年先までものスケジュールが
申し込まれてくる。
「それまで、彼が変声しなければ…」と、結局、まわりのラブ・コールに答える
ためアランは活動を再開。 今度は母親がマネージャーとなる。
合唱団を飛び出し、どこにも所属しない一人の少年ソリストが誕生したのだ。
 そのような彼の存在は、イギリス人である母親の影響が多少ならずとも関係し
ていると思う。
というのも、今ではヨーロッパ大陸の多くの教会で、女声でソプラノが歌われる
ようになったけれど、イギリス国教会においては伝統を重んじ、少年に歌わせて
いるところが多い。 また、そのようなソリストのコンサートも行われ、ライブ
盤のレコードなども出ている。


 

壮麗な歌声、いつまでも
 
アランの初ソロ・コンサートはウルムの教会で行われた。演目はバッハとモーツ
アルトの宗教曲。そしてアンコールに歌われたのが、アランの希望でもあった、
「夜の女王」のアリアだった。
この難解で高度の技術を用する曲をほぼ完璧に歌いこなした彼は、満場の喝采と
ブラボー!をうける。まわりの関係者、評論家陣の多くの希望により、ライブ盤
も作られた。
 こうして、アランの多忙な毎日が再び始まったのだ。
ウルム・バッハ祭への参加。イタリアでは『ヨハネス・パッション』を歌い、続
いて南イングランドへ。
85年にはたくさんのオペラハウスでソリストとしての彼の名前を見られる。
 ザルツブルグ音楽祭では、アランは再びモンテヴェルディのオペラでテルツ少
年合唱団と共演をしている。 前ほどではないにしろ、この合唱団との関係は続
いているようだ。
今年の1月に行われた、デュッセルドルフでのモーツアルト祭においても、テル
ツの3人のソリストと一緒に「カノン」を歌っている。

再びレコードの話になるが、アランは最近続いて2枚のライブ盤を出している。
また、オペラ『オルフェオ』にも参加、ペーター・ホフマンと共演したレコード
もある。

アランは声楽ではその天性の才能で難解なオペラを、彼の母親と所見で歌って練
習するのだそうだが、彼の夢はオペラ歌手ではなくで、指揮者の方らしい。
小さな頃のアランいわく、
「ぼくが指揮者になったら毎晩タダでオペラが見られるし、お金ももらえるんだ
 もの…」
 
 初めてのアランのソロ・コンサートの時、彼は指揮者に頼んで、オーケストラ
を指揮したという。それはその後のコンサートでも行われているようだ。
 また、彼の住む町の子供たちを集めて「プロ・ナトゥラ・ムジカ」というコン
サートも開いた。演目はバッハとビバルディ。こちらは「歌」無しでアランは指
揮者として台に立った。


アランの変声ももうま近であろう。 あの壮麗な歌声が消えてしまうのは残念だ。
だが、もうすでに3人の有名な指揮者がアランにタクト(指揮棒)をプレゼントし
ているという。彼が自分の小さな頃の夢を実現していくつもりなら、それならまた
別な形として将来、彼の-音-が聞けるわけだ。
 しかし、今しばらくは神童をこの時間にとどめて、小さないくつもの感動をこだ
まさせていって欲しいものだ。









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